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Chapter U

   スリーピングビューティーの憂鬱  16


じりじりと後退った柚季は、ついに壁際に追い詰められた。
迫ってくる神保の様子は異様なまでに冷静で、それでいながらどこか狂気めいた凶暴さを感じさせた。
逃げ場を失った彼女の顔に触れた手の、ひやりとした感触に思わず背筋がぞくりと震える。
それを見た神保はふっと唇を歪めて笑うと、指先で軽く顎を押し上げて唇を塞いだ。
「んっ」
まるで噛みつくような、激しいキスは彼女の呼吸を奪い、思考を鈍らせる。結っていた髪が乱れるのも口紅が落ちるのも構うことなく、彼は容赦ない口づけで柚季のすべてを翻弄した。
口の端から嚥下しきれない唾液が流れ落ち、顎へと伝う。それに構うことなく互いを貪り合う二人の姿は、さぞかしあられもなく見えることだろう。
彼の手が服越しに柚季の背中を撫で下ろし、腰を掴んで引き寄せる。
スーツ越しにもはっきりと分かる、興奮の証を押し付けられた彼女もまた無意識に神保の方へと体を摺り寄せたが、彼は突然柚季を押し退けると一歩後ろに身を引いたのだ。
急に体を支えていた拠り所をなくした柚季は、よろめきながら側にあったソファーの背に手をついた。
「じ、神保さん?」
「これ以上はダメだ」
同じくらい乱れていたのに、息一つ切らさず自分を見下ろしている彼に、柚季は困惑の眼差しを向ける。
「柚季……私はもうここにくることはないだろう」
本社の経営側に回る神保は、このホテルのサービス部門から手を引くことになる。分かり切ったことだが、彼の口から直接それを聞かされるのはショックだった。
「だが、柚季が思っているように、ここと……君たちとも完全に縁が切れてしまうわけではないし、私はまた何だかの形でこのホテルに携わりたいと思っている」
確かに神保達が中枢で統べるグループの一組織として存在する以上、このホテルは事実上彼らの支配下にあるといえる。しかし現場にいた今までのように微に細に渡り末端のものまでに目が行き届くということはないはずだ。
「だから柚季」
彼はそこで一度言葉を切ると、ふっと大きく息を吐き出した。
「私がここにいない間に……その間にもう一度考えてみてほしい」
「考える……ですか?」
何をと問いかける間もなく、彼はくるりと柚季に背を向けた。
「自分が本当は……心の中では何を望んでいるのか。嘘偽りない気持ちを、私は君の口から直接聞きたい」
神保はそれだけ言うと、彼女に背を向けたままデスクの方に歩み寄った。そして明日には明け渡さなくてはならない自分の椅子に座ると机ついた両肘に顎を乗せて、まだソファーの背にしがみ付いたまま動けない彼女をじっと見つめた。
「桐島さん、引き留めて悪かったね」
そして神保は最初にあった頃の呼び方と口調で彼女に退室を促す。
その響きの事務的な冷たさにはっとした柚季は、まだふらつく足を床に踏ん張り、何とか姿勢を立て直した。
「神保さ……」
「桐島さん、もう業務に戻ってくれ」
すでにデスクに置かれた、溜まっていた書類に目を通し始めている神保は、顔を上げようともしない。その取りつくしまもない態度に、柚季は唇を噛みしめながら一礼し、彼のオフィスを後にしたのだった。



「もう、一体なんなのよ」
彼のオフィスを逃げるように後にした柚季は、そのまま近くの化粧室に駆け込んだ。
のぞきこんだ鏡で化粧の崩れた顔や乱れ放題の髪を見た彼女は、咄嗟に個室に飛び込むと急いで後れ毛だらけの髪を解いて指先で梳き、トイレットペーパーで唇に残るキスの残骸をふき取った。口紅はランチと先ほどの戯れですでに跡形もなく落ちているし、化粧を直す道具はバッグの中に入れっぱなしで手元にない状態ではこれ以上、ここでは手の施しようがない。

こんな姿を誰かに見られていないといいけれど。

柚季は蓋を閉めたままの便器に座り込むと、両手で顔を覆ってため息をついた。今日の神保は怖かった。今までも冷たいとか容赦がないと思ったことは何度もあったが、彼を恐ろしいと感じたのは初めてだった。
何がそれほどまでに彼を怒らせてしまったのか。
柚季はまだしっかりと理解できないでいた。
彼女はただ単に自分を放っておいてほしいと願い、それを口にしただけだ。
それなのに、彼は執拗に柚季の「望み」を勘繰って、探り出そうとする。
「望み……か」
自分の願望を彼に伝えたところで、何がどうなるというのか。
傷ついた自分を守るために封印したものたちを今さら掘り返してみたところで、彼女の抱いていた夢や希望を取り戻すことはできない。
時間を遡ることができない以上、それらは柚季にとって思い出したくもない過去の苦い思い出でしかないのだ。
大丈夫。私のことなんて、きっと彼はすぐに忘れてしまうから。
神保はあんなふうに言っていたが、長い人生の中で、ほんの少し触れ合っただけの二人の関係など、接点がなくなればすぐにも消滅してしまうに違いない。
そう考えた柚季は自嘲気味に微笑んだ。

周りが見えなくなるほど誰かにのめり込んだ挙句に捨てられるのはもう御免だわ。彼だっていつ心変わりするか分からないんだから。

独りになってからずっと心の中で思ってきた言葉。
それが今になって虚しく響くのはなぜなのか。
柚季は凍らせたはずの心が少しずつ溶け始めているのを恐れながら、それを止められない自分に苛立っていた。




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